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てくむ 2011年11月号

司祭のお話 てくむ 2011年11月号

真の礼拝とは何か

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 東日本大震災から半年が過ぎた。被災したひとりの日本の女の子がローマ教皇さまに手紙を書いたことは、ご承知のとおりだろう。
 「なぜ愛の神様は、このようなひどいことを許すのですか?」
 この質問に対して、教皇さまは答えられた。
 「わたしにも分かりません。ただ、わたしも困難にあえいでいる人々のひとりひとりに心をそえて、そばにいます」
 教皇さまとしてりっぱな、よいお答だ。
 ところで、もし私が教皇だったら?どういう答えをしただろう?と考えてみた。おそらく、こう答えただろう。
 「大事なのは、この世界が、この宇宙が、人間のために造られているのではない、ということだ。この世に人間が登場しても、登場しなくても、この世界はこの世界。この宇宙はこの宇宙」
 人間の眼鏡に適った世界だから、神が愛であることを認めようというのは、人間の傲慢であり、人間の身勝手だ。そう考えた時、どうしても「ヨブ記」を思い出さざるを得なかった。
 旧約聖書「ヨブ記」は、ヨブという一人の人間にまつわる話だ。わずか42章の短い文章ながら「世界最大の文学」と称されるほど有名なヨブ記だ。
 そもそもヨブは、とても信仰深い人だった。行いもりっぱな、すばらしい人間だった。そこで神さまはある時、悪魔に向かって自慢する。
 「おい、悪魔よ、見ろ、あのヨブを。実にりっぱだろう。信仰深いだろう」
 すると悪魔は答える。
 「神さま、ちょっとお待ちください。ヨブが信仰深いのは、そしてヨブが行いが正しいのは、彼がこの世のあらゆる幸せを味わっているからです。」
 本当にヨブは幸せだった。豊かな財産を持っていたからだ。例えば、羊7千頭、らくだ3千頭、牛5百頭。それほど沢山の財産を持っているからこそ正しいし、神さまに対して忠実で信仰深いと、悪魔は言う。
 それだけではない。ヨブには10人の子どもがいる。みんなそれぞれ結婚し、幸せな家庭を築いている。お父さんのヨブは、子どもの家で毎夜宴会にあずかる。子どもたちは親思いで、仲がいい。人として非の打ち所のない、この世での幸せをヨブは体験している。悪魔は言う。
 「神さま、だからそれら一切をヨブから奪ってみろ。すると必ずヨブはあなたを呪いますよ」
 そこで神さまは、ヨブを試みる。大風を起こして、親族一同の家をことごとく一軒残らず倒し、子どもたちは全員雷で死んでしまう。家畜は全部いっぺんに殺されてしまう。家族を失い、全財産を失っただけでなく、健康そのもののヨブに異変が起こる。身体中にかゆい、皮膚病が起こる。かゆさにヨブは転げ回る。
 しかしヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して、にも関わらず神を賛美する。
 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1・21)
 このような時にもヨブは、神を避難することがない。口で罪を犯すこともない。そしてその後も、ヨブの波瀾万丈の生涯は続く。
 ヨブ記の言いたいことは、どういうことだろう?それは、私たちはとかくこの世で、良いことがあった時、神さまを賛美し、礼拝を捧げるが、一体それだけでいいのか、ということだ。良いことがあった時、幸せになった時、神さまを賛美する、神さまを礼拝する。それで十分なのか?
 そうではない。いやなこと、苦しいこと、つらいことがあると、すぐ私たちは神さまを忘れがちだけれども、それではいけないと「ヨブ記」は示す。
 「幸いの時でも、不幸な時でも、心安らかな時でも、苦しみ不幸に陥っても、そういうことに関係ない。神さまはいつも神さまですよ」
 どんなに暑くても、どんなに寒くても、大地震が起きて、大津波が押し寄せ、人が死んでも、神はいつも神さまですよ。だからいつでも神への礼拝と賛美を忘れてはいけませんよ、ということだ。
 私たちは毎日生活していて、嬉しいこと、楽しいことがある。しかしそれ以上に、悲しいこと、辛いこと、気の滅入ってしまうことの方がはるかに多いのが、私たちの人生ではないのだろうか。
 ヨブの言葉を私たちの日常の言葉として、神への礼拝、賛美を続けて行こう。大事なのは、この世界が、人間のために創られているのではないことだ。人間が存在しても、しなくても、この宇宙はこの宇宙。この世界はこの世界。人間の眼鏡にかなっていても、かなっていなくても、神さまはいつも愛。それに変わりがない。万一神が愛であることをやめたら、この宇宙は一瞬にして無に帰してしまう。主は与え、主は取り去り給う。主の御名はほむべきかな。