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てくむ 2011年8月号

司祭のお話 てくむ 2011年8月号

この世の真珠

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 「なでしこジャパン」が、女子サッカーのワールドカップで優勝した。暗いニュースの多いいまの日本で、アメリカを破って世界一になったニュースは、大きなよろこびを日本国民に与えた。
 優勝決定の月曜日、私は尾瀬にいた。近所の3つの教会合同で、2泊3日の「山の教会」だ。
 尾瀬の山奥から降りてきて帰りのバスの車内で、全く知らない女性客が「なんですか?」と聞くので、「なでしこジャパンが優勝したんです」と言ったら、「エー!」と飛び上がるほどよろこんだ。こんな山奥にいても、あんなに喜ぶということは、それだけ国民的な喜びであった、と言えるだろう。
 優勝の感動のあと、選手たちがアナウンサーのインタビューに答えていた。その中の一人が、こう言った。
 「世界一になるため、すべてを犠牲にしてこれまで努力してきました。」
 思うに、私たちの人生は、いろんなことを選んで決断して、日々の生活を送っている。その時、なにを最優先にするか? まさにこの、優先順位の付け方で、その人が人生でなにを大事にしているか。その人の人生観がわかるものである。
 ある人は、お金が絶対だ。お金のためならなんでもやるとなると、お金がその人にとっての最優先順位。言わば最高の価値、神さまの地位に置いてしまっていることになる。
 あるいは、ある人は、家族のきずなこそ最優先。でも、人は、やがて年老いて確実にみな死んで行く。すると家族のきずなにも限界があると言える。
 また、ある人にとっては名誉が最優先だ。なでしこジャパンもこの例だろう。「世界一になるため、すべてを犠牲にして努力してきました」と、あの選手が言ったとおりだ。 
 それでは、一体私たちキリスト信者は、人生のどこに最優先の順位を置くのか? これが当然問題になってくる。お金か? もちろん違う。家族の絆か? もちろん違う。名誉のような、儚いものでももちろんない。つまり、多くの人々が最優先に置いているものが、神さまを信じている者にはあてはまらないのである。
 もちろん、お金も家族も名誉も、価値あるものだろうが、それは相対的価値に過ぎない。価値があっても低い価値に過ぎない。絶対的な価値ではない。なぜなら、いずれも時がくればいつかは確実に消え去るものだからである。

 「天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」(マタイ13・45-46)
天国とは、死んでから行くところではない。この世にいながらすでに、神さまに出会い、神の命に与って生きていれば、その人はもう天国に入っているのである。
天国に入っている私たちは、真珠に例えられる。真珠、それは昔の人にとり、全ての持ち物の中で最も美しく、最も価値あるものだった。天国とは、神と出会い、神のみ心を受け入れて行うところだ。神のみ心を行うことは、わびしく、暗く、悩み多いものではない。反対に、とてもすばらしいものだ。十字架の彼方に、どこにも見いだし得ない、真の平和と真のよろこびがあり、美しさに輝いているものである。それは神との出会い、神のみ心を受け入れて行う以外、この世においてどこにも見いだす事のできないものだ。
世の中に、価値ある真珠と思われるものは沢山ある。たとえば芸術の世界では、画家にとって絵を描くことはなによりのよろこびだ。画家には絵を描くことが真珠であるわけだ。音楽の世界も、文学の世界も、学問の世界もおなじだ。そしてスポーツの世界でもおなじだ。なでしこジャパン世界一。彼女たちにとって、人生の真珠と言える価値あるものを手に入れたわけだ。人生の真珠と言える価値あるものはたくさんあり、それぞれの人にとってそれは美しい真珠だろう。
しかし神との出会いという天国の真珠に比べれば、全く見劣りするものである。他の真珠は相対的に価値の低い真珠に過ぎない。なでしこジャパンが世界一というすばらしい名誉は、とてもすばらしい。でも神との出会いこそ、真の価値がある真珠。神との出会いという真の価値ある真珠に比べれば、他のすべての価値はたかが知れている。
なぜなら100年も経てば、おおかたの人にとって、もはや関心外のことだ。だれも覚えてない。
なぜならば、それらの価値は、永遠ではないからだ。その意味で、底の浅いよろこびに過ぎない。神さまと出会った人、天国に属する人々にとり、この世の光はどんな光もありきたりの光に過ぎない。
商人がよい真珠を見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買った。それとおなじように私たちも、この世のなによりも真珠を、天国を、神さまとの出会いを、神とのより深いきずなを、全力を尽くして求めて行きたい。