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てくむ 2011年7月号

司祭のお話 てくむ 2011年7月号

大人の度量「そらした視線」

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 30数年前、私が神父になりたての時のことだ。教会に一人の青年が訪ねてきた。彼はある会社に就職したと言う。東京電力だ。そして新人研修で、何度も原子力発電の安全性と経済性の「安全教育」を受けて、福島の原発部署に配属された。
 ところがそこで、困った事が生じた。福島の原発予定地の人々の反対運動だ。しかもその先頭になんと、一人のカトリック司祭がいる。その方はフランス人のエドワード神父で、当時日本のカトリック教会の正義と平和委員会のメンバーだった。フランスは日本より早く原発を導入していた。まだ原発の知識のない日本社会に「決して安全ではない」と、社会正義の観点から啓蒙したかったのである。しかしこの青年には師の主張がよくのみ込めなかった。
 さて、30数年の時が過ぎた。そして東日本大震災と、それに伴う東電の福島第一原発事故が起きた。最近偶然、彼と会った。彼はしみじみ言った。
 「福島の地元民に対しての広報担当で、自分は原発の安全を宣伝するための先兵であった。地元中学に何十回も足を運び、子どもたちに放射能の安全性を語った。原発には安全装置が沢山あるから絶対安全だ。万一地震が起きて津波が来ても、この辺は太平洋に対して一直線で力が分散されるから、原発は絶対に安心だ。散々人々に語ってきたことが全て、事実に反していた。自分はウソを言っていた。彼らに会わせる顔がない......」と。
 彼の今の仕事は、原発事故の尻拭いだ。電力会社の連絡担当者として、避難所に避難している人々に情報を届けたり、彼らの要望を聞いたり。或いは避難所内の役所の出張所の清掃奉仕をしたり。かつて彼は自信満々、声高らかに、地元民に原発は絶対安全だと吹聴してきた。それがいまや地元民に土下座の毎日だ。彼はこの事故で、つくづく分かったのではないだろうか。それは、「絶対」という言葉は神さま以外にあり得ないということ。そして科学は、人間が神の造られた自然の前に謙虚になるためにあるということだ。  ゲッソリやつれ、疲れ切った顔で彼は言った。
 「でもいま、救いが一つあります」
 こちらが東電の社員とわかると、避難所の人々はたちまち冷たい視線を投げかけたり、荒々しく怒鳴りつけても当然なのに、全くそれがない。逆に避難所に行く度に、人々が自分に声をかけてくれる。「よく手伝いに来てくれたなあ」「あんたは大丈夫かい?」。福島の人々はとても温かく、それが反ってつらい。そう彼は言っていた。
 私はこの話を聞いてグッときた。ああ、この避難所の人たちは大人だなあと思った。大人とは、相手の気持ちを思い遣ることができる人のことだ。自分も辛いが、相手の辛さもわかる。それが大人だ。
 私は思わず、ヨハネ福音書8章の「姦通の女」の話を思い出した。
 姦通の現場で捕まえた女に、石殺しの刑で石を投げつけようとしていた男たちが、イエスさまをやっつけようと質問をする。「こういう場合律法では、石で打ち殺せと書いてありますが、あなたはどう思いますか」。
 これは実に巧妙な質問だ。「はい」と言えば、日頃のイエスさまの愛の教えに反する。「いや」と否定すれば、律法違反に問われてしまう。身をかがめて地面になにか書きはじめたイエスは、やおら身を起こして彼らに、たった一言、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」。そしてまた、地面になにか書き始められた。 この言葉を聞いて年長者から一人去り二人去り、女とイエスだけが残された。主は女に言う。
 「だれもあなたを罪に定めなかったのか」
 女は言う。「主よ、だれも」。
 するとイエスは言われた。
 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」(ヨハネ8・10ー11)
 そもそも、この「罪のない者」とは、人となられた神であるイエスのみだ。資格があるのに、そのイエスが石を投げない。しかも男たちが去ったあと、イエスは「誰もあなたを罪に定めなかったのか」と言うだけで、ほかの何事をも質問なさらない。何ひとつ聞こうともしない。
 本当の愛には、聞きたいが、あえて聞かないでやる。見たいが、あえて目をそらしてやる。それが、時として最も深い愛であり、これが真の愛である場合がある。「そらした視線」。それが、私たちの日々において時に一番大事な時がある。
 避難所の人々が、自分たちを苦しみに追いこんだ原発事故の当事者の会社の彼が来ても、石をあえて投げなかった。彼らの心の温かさ、度量の大きさを彼に示した。それは主イエスの、姦淫の罪の女に対する「そらした視線」に通じるものがある。私もそれに学び、少しでもそのように生きたいと思う。