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てくむ 2011年6月号

司祭のお話 てくむ 2011年6月号

主イエス・キリストとオサマ・ビンラディン氏
-それぞれの死の意味-

主任司祭 パウロ 小林 敬三

  最近の国際的な大きなニュースの一つが、国際テロ組織アル・カイダの指導者オサマ・ビンラディン氏が米軍により殺害されたニュースだ。その新聞報道の中で、潘(パン)国連事務総長が「これで正義が達成された」と言っていた。国連の中で中立の立場でなければならない事務総長の発言としてはあまりにも超大国アメリカ寄りの発言ではないか、と違和感を持った。
 この数世紀世界の歴史はヨーロッパ主導で動き、第二次大戦後はアメリカがそれに代わった。アメリカは自国の価値観で他国を判断し、ときにベトナムやイラクなど諸国に攻め入った。そこで生じる貧困や不公正に対して、テロ以外に自分たちの異議を申し立てる手段を選択できない人々が当然うまれてくる。超大国アメリカのエゴに対して、ビンラディン氏なりの論理、正義感に基づいての行動だったのである。ビンラディン氏の極端な過激に走らせた真の原因への眼差しを、私たちは欠かしてはいけないと思う。
 
 ところで、私たちの救い主イエスさまの十字架の死と、ビンラディン氏との死の共通点を考えてみた。一つ目は、現実を変えたい、という点だ。イエスさまは、宗教的救いを通して人間を変えたい。一方ビンラディン氏は政治的、暴力的手段を通して現実の社会を変えたいということだ。
 そして二つ目は、二人とも目的を達せずに志なかばでその生涯が終わったことである。
私たちの毎日は悲喜こもごもだ。日常大事にしていたものをある日失うと、その苦しみはあまりにも大きく、いつまでもその悲しみにこだわって苦しむこともままある。主イエスの弟子たちも、主の十字架上の死に接してガッカリしてしまった。期待が裏切られ、悲しみに心を奪われていった。

 ある日、二人の弟子がエルサレムからエマオという村へ向かって歩いていた。すると一人の人が近づいて来て一緒に歩き始めた。その人は二人に聞く。
「いま、なにを話していたのですか?」
「あなたはエルサレムで起きたことをご存知ないのですか。私たちが師と仰いでいた方が亡くなられて、甦ったらしいんですよ。」
すると、その方は仰った。
「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い者たちよ」(ルカ24・25)
そして聖書の話をしながらエマオの村に着くと、もう外は暗くなってきていた。二人は言った。
「どうぞ一緒にお泊まりください。」
旅人はその家に入り一緒に食事の席に着くとパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡した。
すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、そのお姿は見えなくなった。弟子たちはよろこびにあふれ、時を移さずすぐエルサレムに戻って
「復活した主に出会った!」と人々に伝えた。
主イエスの弟子たちが、死が死ではない、滅びが滅びではない現実があることに気づくのは、まさにこの復活されたイエスとの直接の出会いの体験からなのである。

 ビンラディン氏の死によって彼の組織はこれから終息に向かうかも知れない。しかし私たちの教会は正反対。主イエスの死から実はすべてが始まった、と言っても過言ではない。
弟子たちはパンを食べ、主の復活に接し、弟子たちは心から復活した主を信じた。主の甦りの真実の中に彼らはそれから生かされていったのである。
闇と十字架の真っただ中でも、もはや折られることも砕かれることもない、真の命の希望に生かされていくことができるようになった。ここに私たちキリスト信者の尽きざるよろこびの秘訣がある。