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てくむ 2011年4月号

司祭のお話 てくむ 2011年4月号

「大震災と原発事故」そしてあの学者と盲人と

主任司祭 パウロ 小林 敬三

  テレビでは3月11日以来、東日本大震災の関連のニュースが日々伝えられている。
 今度の大震災で特に原子力発電が大変話題になっている。目に見えない放射能は、国民一人一人にとっても、あるいは世界の方々にとっても当然、大きな関心事だ。「原子力利用の利点は、CO2を発生しない。地球温暖化にも有利だ」と、説明されてきた。原子力発電によって我が国の産業が発展し、生産力も向上し、真夏もクーラーで猛暑をしのぎ、オール電化で日常暮らしている方も多いかと思う。
 電気の通わない未開発の国の人々にとり、こんな電気中心の日常生活は全く考えられないことだ。電気の恩恵にどっぷり浸かって生活している我々は、今度の災害で電気のありがたさ、またそれを失う不便さ、あるいは原子力について考えたのではないだろうか。
 更にこの大震災でわかったことは、人間の知識の進歩の儚(はかな)さだ。そして自然の驚異の底知れない力に、我々は震えあがった。また、科学技術の進歩に思い上がって、我々は自然の力をいつの間にか見くびって来たのではないか。小惑星に7年もかけて行ってきて星の塵を持って帰り、あたかも宇宙をも見極めたつもりでいた。この大震災で我々は、神のみ前に、そして大自然の前に、いかに人間がちっぽけな存在であるか、と気づかされた。
 大震災の一連の報道の中に、私は小さな記事を見つけて、ちょっと考えることがあった。それは高木仁三郎という、10年前に亡くなった原子力の専門家の記事だ。この方は核エネルギーの専門家としていろんな機会を通して、原子力の危険性をことあるごとに主張してきた。
 この方は、核エネルギーの平和利用が正しく危険がないと言えるのは、次の条件がちゃんと守られてる時のみだと言う。まず一連の決め手になる機械が正常に作動し、要の位置にいる人々が完全に指示を守り、サボタージュもなく、核燃料輸送中のハイジャックもなく、革命も戦争もない場合、これらの条件が完全に守られれば一応安全と言える。但し、「天災が決して来ないということが条件だ」と言う。
 天災とは、まさに地震、津波だ。だから安全は全く保証できない。常に危険と隣り合わせにあるので原子力はやめた方がいい。彼はずっと主張し続けてきた。しかし彼の意見は、電力会社の圧力と政治家たちの横やりに遭って異端視され、変わり者扱いされ、無視され、かき消されていった。そして非難中傷を浴びながら、10年前亡くなられた。
 新聞を読んで、自分が正しいと思ったことは、たとえ自分の立場が悪くなっても、変わり者と中傷されようと、言い続ける見識と勇気、その大切さをつくづく感じさせられた。
 ある時、イエスさまは生まれつき目の見えない盲人の目を開かれた。このうわさはたちまち世の中にひろまり、元盲人は、当時の宗教指導者ファリザイ派の人々のところに連れて行かれた。
 実はこの出来事は、安息日のことだった。6日かけて神さまは天地を創られ、7日目にお休みになったので、私たち人間も安息日を作って一日休み、神に祈る日にした。働いてはいけないから、眼医者も患者の目を診察する事ができない。
 ユダヤ人たちは、イエスは安息日に目を開いたのだから、律法違反だから罪人だ。そうハッキリ断言する。すると元盲人は必死に反駁して言う。
 「あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」。
 この発言のために元盲人は神殿から追放された。自分の主張ゆえに村八分の憂き目にあったのである。そこにイエスが来て質問なさる。
 「おまえは救い主の存在を信じるか」
 「はい、信じたいのです。その方はどこにいますか」。するとイエスは、
 「あなたはもうその人を見ている。あなたと話しているわたしが、その人だ」
 すると盲人は、「主よ、信じます」。そう言って、ひざまずいた。(ヨハネ9)
 イエスさまは盲人の肉眼の目を開き、同時にご自身が救い主であることを信じる心の目をも開けたのだ。
 日常生活で、とかくまわりの声に流されがちな私たちである。イエスによって目が開かれたあの盲人のように、あの先生のように、正しいと思った事は堂々と人々の前で主張し、一貫して貫き通す。その見識と勇気に学びたい。