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てくむ 2010年9月号

司祭のお話 てくむ 2010年9月号

久しく待ちにし・・・・・・ 

主任司祭 パウロ 小林 敬三


 私たちの人生は、予想通りにはいかない、予期しない「まさか」ということが、まま起こるものである。先日ある方から「病院を訪問してほしい」という連絡があった。50歳過ぎの男性がガンで苦しみ、「できたら洗礼を受けたい」ということだった。
 この方は個人経営の税理士で、いままで健康になんの問題もなかったのが、3ヶ月前、どうも身体の調子がわるいと感じて病院へ行った。すると検査の結果「大腸ガン、余命は3ヶ月」と宣言された。すぐ入院だ。その船橋市内の病院へ行き、私が病室に入ると、一人の男性が横たわっていた。目だけ大きく見開いて、やせ細ったお身体だ。点滴で苦痛にゆがんだ表情を浮かべ、かぼそい声で仰った。
 「自分はいままで仕事一筋に生きてきました。昨年の暮れのことです。夜、千葉市内のある町を歩いていたら、大きな人の声が聞こえてきました」
 よく聞くと、それは、なんと西千葉教会のクリスマス・イブの夜のミサのことだった。彼は若い時にキリスト教会に数度行った事があるだけで、キリスト教との関わりはそれしかなかった。ところがその夜、思わず教会に入ったそうだ。真っ暗の御聖堂の中に人があふれんばかりにいて大変ビックリした。そのうち、一人の人が突然ソロで歌い始めた、と云う。それは、私だった。ごミサの最初に聖歌『久しく待ちにし』を歌ったのだ。彼はそれを聴いて、大変感銘を受けたそうだ。それ以来、心の奥のどこかで洗礼を望むようになった。しかし仕事でそんなことを忘れているうちに、こういう事態になった。
 そこで私は質問した。
 「いまからここで洗礼を受けませんか。準備してきましたよ」
 「はい。心から洗礼を受けたいです」
 そう仰ったので、洗礼をお授けする前に、あの時のあの歌を、私は彼の耳元に口をあてんばかりに近づけて、小さい声でゆっくりと歌って差し上げた。
 「 久しく待ちにし 主よ とく来たりて…  み民のなわめを 解き放ちたまえ…  主よ 主よ み民を救わせたまえや 」
 そして私は額に水を注ぎながら、「父と子と聖霊のみ名によって、あなたに洗礼を授けます」。すると涙が両眼からにじみ出て、糸をひくように流れだした。深く感動しておられた。
 人生とは、ある日、ある時、予想だにしなかったことが突然起こるところだ。いままで健康そのものの彼にとり、まさに予期しなかった「まさか」の病気。しかもやがてすぐ神のみ許へ馳せ参じなければならないのである。
 この事実は私たちの信仰について、大切なことを語っていると思う。
 主はご昇天の折、「わたしはもう一度来る」と仰った。それは世の終わりの時、終末の時だ。いつ終末の時がくるのか、人間にはわからない。でも、私は個人的にこう考えている。世の終わりとは、私たちの肉体の死と同じ時ではないかと。なぜなら肉体が滅んでも魂は、永遠の命の世界、復活の世界に生き続ける。そこは私たちが想像できない次元の、すばらしい世界である。
 「神の前での一日は千年の如く、千年は一日の如し」(2ペトロの手紙3・8)
 神様の前での永遠の命は、この世とは全く物差しが違う。時間も異次元の世界である。この世の時間の経過をカットした世界なのだ。
 人生は予期せない、驚くことが多い。その最たるものは、私たちが必ず近々迎えなければならない死である。突然のおのれの死に、お互いに慌てることのないようにしたい。思いがけない突然の世の終わりに、主のみ前に立たされた時、お互いにオロオロする事のないようにしたい。
 主イエスも仰っている。
 「腰に帯を締め、ともし火を灯していなさい」(ルカ12・35)
 主人がいつ帰って来るか、わからないからである。いつ私たちはこの肉体の死を迎えるか、わからないからである。このともし火は、主イエスとかの日かの時、出会った時、そのみ足下を照らす光。主人を待つ、私たちの思いを輝かしく語る灯りでもある。
 世の終わりに主が帰って来られた時、主イエスは私たちと食事を共にして下さる。共に再会を歓びあう、うれしい宴なのである。