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てくむ 2010年8月号

司祭のお話 てくむ 2010年8月号

愛の原則…愚かさ 

主任司祭 パウロ 小林 敬三


 私たちの毎日の生活は、いつもいろんなことが突然起こり、それに翻弄されてしまうことが時にある。実際私にも先日そういうことがあった。
 ある幼稚園で、幼稚園バスを運行している。毎日幼稚園とある町を2時間かけて往復する通園バスだ。ところが運転手さんが辞めることになり、新しい人を雇った。するとわずか一ヶ月で、
 「この額では喰ってけない。賃上げしてくれ。さもなければ辞める」と、言ってきた。
 これにはビックリした。ごく最近その条件で契約を交わしたからだ。こちらとしては、腑に落ちない。また、実はこの人には関係者からクレームがきていた。「運転が乱暴だ」「ぞんざいだ」など、いろいろだ。
 それから園長先生と四方八方手をまわし、途方に暮れていた三日後のこと。まったく神の恵みとしか言い用のない、よい方を見つけた。長年の経験のある方で、しかもひと月ほど様子を見ていると、いつも園児たちに対してニコニコと接してくれる。仕事のあともバスを水洗いしたり、園庭の草抜きまでしてくれる。やることの一つ一つが、よく気がつき、心がこもっているのである。
 実はその方の息子と孫がこの幼稚園の出身者だった。その事実からバスの運転が単なる一つの仕事ではなく、幼稚園に対しての恩義と愛情から、もっともっとこの園のために尽くしたい、貢献したいという気持ちを感じる。人生すべからく、「問題は愛だな」と、つくづく感じさせられた次第だ。

 ルカ福音書7章に有名な罪の女の話がある。ファリザイ派のシモンの家にイエスさまが食事に招待されることを知ったひとりの罪深い女が、その家に入った。そして食事をするイエスさまの足もとにひざまづき、そのみ足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、み足に接吻して、持ってきた香油を塗る。それを見た招待主シモンは、イエスを心の中で非難する。「あなたがもし預言者なら、この女がどういう女かわかるはずだ。罪深い女なのに」。
このファリザイ派のシモンは、正しい人と自他共に任ずる人だ。来客の足を洗い、その足にオリーブ油を塗るのは、当時金持ちの家の奴隷の仕事だ。イエスさまがわが家に来られても、シモンは一家の主人だから、それをやらないことは正しい。筋が通っている。しかし問題は正しいか否かの、いわゆる正義の問題ではない。そこに愛があるか否かだ。
罪深い女の行為は大切なことを私たちに告げている。人間は真の愛にふれると、プラスマイナス差し引きゼロというこの世の原則を飛び越えてしまう。喜んで、計算を度外視して、余分なことをしてしまう。真の愛にふれると敵への愛においてさえ、相手が赦す赦さないといったことに関わりなく、相手を赦すゆたかな愛がほとばしり出てくるのである。
プラスマイナス差し引きゼロが、世の中の正義の一つの原則だ。それは大事だが、しかしこの原則だけですべてが動いてしまったら、一体人間はどうして救われるのだろう?
この罪の女の行為の延長線の先には、実は主イエスがおられる。主イエスこそ、私たちの罪に汚れた身体をいつも涙でぬぐい、髪の毛で拭って下さる方だ。主は罪に汚れた私の足に接吻してやまない方だ。主は罪に汚れた私の頭にいつもオリーブ油を塗って下さっている方なのである。
正義の原則にだけ立つなら、そのような行為はまったく無意味であり、あり得ない。しかしひとたび愛の原則に立つと、主イエスは私たちにそうせざるを得ない。なぜなら真の愛とは、常に愚かさをその本質に伴うからだ。真の愛は、これだけやったからもう充分ということは決してあり得ない。もっと相手のために、もっと相手のために、という思いにかられるものだからである。
日々の生活で、どんな些細なことも、どんな平凡なことも、一つ一つ誠実さと愛をこめて、お互いにおこなって行きたいものである。