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てくむ 2010年6月号

司祭のお話 てくむ 2010年6月号

「山彦」とは違う神の世界

主任司祭 パウロ 小林 敬三


 先日テレビで、子ども向けの面白い番組をやっていた。小学校1年生ぐらいの子どもが、目の前の山にむかって、大声で叫んでいるのだ。
 「おーい、バカヤロー。これから、悪いおまえを叩きつぶしに行くぞー」
 すると、なんと山の向こうにも男の子がいて、向こうもこちらに叫んでくるのだ。
 「おーい、バカヤロー。これから、悪いおまえを叩きつぶしに行くぞー」
 これは、山彦だ。だからおなじ言葉が返ってくる。ところが子どもは怖くなって、母親に訴えに行く。すると母親は「じゃあ坊や、今度はやさしい言葉をかけてみなさい。
山の向こうの子も、やさしい言葉をかけてくれるわよ」。それを聞いて子どもは、今度はこう叫ぶのだった。
 「オーイ、きみはよい子だなー。今度、一緒に遊ぼうぜー」
 すると、まったく同じ言葉が返って来た、という場面である。何気なく見ていた私は、「あ、これは人生で大事なことを言っているな」と、思った。
 教会にはよく、人生相談の電話がかかってくる。その中で、職場の人間関係について「自分は誰からも愛されていない」、「自分はいつも冷たい態度をとられる」と悩む人がいる。
 これはまさに、この山彦だ。自分が冷たいから、相手も冷たい。自分が愛さないから、愛してくれない。これが意外に多いのではないだろうか。人は鏡と同じだ。まず自分が笑わずに、鏡の中の自分に笑顔がでるはずがない。我々の世界は、「まず隗(カイ)より始めよ」の原則があるのではないか。初めの一歩は、つねに自分。「相手を変えようと思うな、自分が変われ」。これは夫婦関係にも言える。
 しかしそれは所詮、この世でのことだ。神の世界、信仰の世界は、まさにこれと正反対だ。こちらから先に声をかけるのではない。天の神様が先に私たちに声をかけて下さるのである。信仰の世界はこの世と違い、初めの一歩はつねに神様の方である。
 聖母マリアも、御子イエスを胎に宿されたとき、最初の一歩は神様の方からの声だった。天使ガブリエルがマリアのもとに来て、こう言った。
 「おめでとうマリア。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む」
 この一方的な声がけから始まり、イエスさまのすばらしいご誕生とあいなり、そして人類の真の救いがこの世にもたらされることになったのである。

 「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに愛を示された」(ロマ書5・8)

 私たちがりっぱな人間になって神様に近づいたから、キリストが私たちのために死んでくださったのではない。まだ私たちが罪人であったとき、主イエスがまず私たちの罪の贖いのために死んでくださった。そのことによって、私たちは神の愛を真に気づき、知るにいたったのである。
この愛の事実の重さに気づいたとき、私たちの心の中に、大きな変化が起こる。日常の生き方まで変えられてしまう。いままでは己の目の前の利益だけに振り回されていた自分が、あの方の行ったように行い、あの方が死んだように死ぬという、新しい人生に、輝かしい神の愛を浴びながら、踏み出すようになるのである。
神様の世界、信仰の世界は、初めの一歩はつねに神。この神様の先んじた愛に、いつも心をとめ、その事実に感謝しながら進んでいきたい。