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てくむ 2010年5月号

司祭のお話 てくむ 2010年5月号

「あッ、こういうことだったのか」

主任司祭 パウロ 小林 敬三


 ご復活のお祝い日には、最近司祭に叙階された、ここ西千葉教会出身の倉田厚神父様が初ミサを捧げて下さった。大きな感動と二重のよろこびに包まれた、すばらしい御ミサであった。
 「若い者はやっぱりいいな」、一緒に御ミサをあげていて若さのエネルギーを感じ、自分にもこういう時があったことを思い出した。
 私もかつて神学校に10年間いた。まだ司祭になっていないので、ときどき教会の司祭の言葉とか行動を、違う世界から見るわけである。すると、「なんでだろう?」。時々理解できない時があった。それが私の口から不平不満として出てきたこともときどきあった。
 ところがやがて司祭に叙階され、助任司祭として教会に派遣されていく。すると、初めて体験することばかりであった。そしてその時感じたことは、「あッ、こういうことだったのか」と、過去の己を振り返り、文句を言う筋合いではなかったことに気づいた。それでも教会のことは全て主任司祭の責任になるので、好き勝手な言動のできる助任生活は楽しかった。
 しかし数年後主任司祭になる。今度はすべての最終責任が自分にあるとわかる。するとそう好きな事も、やっていられない、言っているわけにもいかない。すべてこちらにはね返って来る。すると以前は理解できなかった司祭の行動や言葉が、
 「あッ、こういうことだったのか」
 自分が主任司祭になって初めて、その観点から行動し、言葉を発することがわかるようになった。「あッ、こういうことだったのか」となるのである。 申し訳ない事だった......。
 この「あッ、こういうことだったのか」とは、私たちの人生でも多くあることである。
 例えば、ことわざの「子を持ちて知る親の恩」。自分が大きくなるために親はどれだけ愛情をこめ、いろいろと心配し、様々な苦労をして、やっと大きくしてくれたか。それなのに子どもは親の愛情を見る余裕がない。なにやってもらっても、親だからあたりまえ。そういう気持ちで子どもは大きくなっていくのではないか。 それが、やがて結婚し子どもができて、子どもを育てることがいかに大変かを日々体験することを通して、「あッ、こういうことだったのか」。親の苦労を初めて自分が味わい、親への感謝をあらためてハッキリと自覚する。しかし多くの場合、「孝行したい時、親はなし」。人生にはこういう面がある。

 先日私たちは主のご復活を盛大にお祝いした。主イエスさまは私たちの罪の贖いのために、あの十字架の上で尊い命をお捧げくださった。
「週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった」(ヨハネ20・19ー20)

 弟子たちは、復活したキリストと不思議な出会いを体験した。これがキリスト教会の出発点である。これを弟子の復活体験と言う。弟子たちの部屋に、復活されたイエスが入ってきた。弟子たちはイエスの両手に釘跡を見た。
 「あッ、こういうことだったのか」。
 イエスさまの生前、弟子たちはだれもイエスさまの言葉を信じなかった。イエスさまの復活の預言を戯言(たわごと)のように聞き、イエスさまご自身の言葉を真剣に受け取らず、右から左に聞き流していた。しかし十字架上で命を捧げられた後、その預言のお言葉通り甦り、手足の釘跡を見せて、弟子の目の前に主イエスが現れたのである。この復活のイエスとの出会いの体験こそ、弟子たちの信仰の言わば決定打であった。復活したキリストに出会って、弟子たちは思った。“あッ、こういうことだったのか”。
 弟子たちは復活した主イエスこそ真の救い主であることを、ここで深く深く体験し、心から認識したのである。そしてこの出来事が起点となって、「主は復活した。イエスは我々の救い主だ」と述べ伝えに、聖霊の力を戴きながら、やがて彼らは福音を伝えに全世界に散って行ったのである。
 私たちも日々信仰のうちに、復活したキリストに出会い、聖霊を豊かに受けよう。そして復活したキリストを信じて生きるとはーー“あッ、こういうことだったのか”。そのすばらしさと輝かしさの驚きに、深いよろこびと感謝を抱きながら日々歩んでいきたい。