トップ >  信者の方へ >  司祭のお話 > 

てくむ 2010年3月号

司祭のお話 てくむ 2010年3月号

お父さんと凧あげ大会

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 先日は、君津市の山の中にある久留里幼稚園の「お父さんと凧揚げ大会」に招待されて行って来た。子どもたちとお父さんが一緒に凧を作り、そして広場で飛ばすという、たのしい催しだ。
 ふだんは仕事で幼稚園に来られないお父さん方のため、その集いの前に20分ほど、次のようなお話をさせて戴いた。
 私が幼稚園に行くといつも園児達が、外から人がきたことで喜んで、ワッとまとわりついてくる。そしてみんな口々に言う。
 「鉄棒、いまやるから見てて!」
 「あそこまで一輪車で行くから、見てて!」
 つまり、自分に注目してほしい。成功するかどうか、自分を見ててほしい。だから見てあげる。そして見事成功すると、両手をたたいて「お上手、お上手!」。そう言ってほめてあげる。すると、ニッコリ。必ずうれしい表情に子どもたちはなる。自分の存在が、自分がやったことを通して認められたからだ。
 この、「人から自分の存在を認められたい」とは、人間誰しもが持っている最も基本的な、精神的な欲求の一つである。
 さて、凧作りはお父さんと子どもの合作である。割り箸1本を割いて縦と横の骨にし、スーパーでもらったビニール袋を三角に切って貼付けて、糸で結ぶ。
 「よく子どもにわかるように、かみくだいてゆっくり説明してください。そして必ず、一緒に作ってください」。この園長先生の言葉通り、父子で一生懸命作って何十分かで凧はできあがる。
 いまの世の中の一つの特徴は、会社であれどこであれ、結果主義と言えないか。その過程がどうであれ、その人の人格がどうであれ、結果さえよければその人は評価される。
 しかし、神様は違う。私たちの神様は結果ではなく、過程を重んずる神だ。いかにりっぱな凧をつくるかより、いかにしてお父さんと子どもが心をひとつにして、愛をこめて協力しあって、この作業を行ったか。そのことこそ大事なのである。子どもにとり、親にとり、作られた凧ではなく、お父さんと凧を作ったこと自体が、生涯深く長く思い出として残るはずである。
 できた凧がどんなであれ、お父さんにほめられることで、子どもは自分が評価されたことによろこび、自信をもち、物事を前向きに、明るくとらえる人間になっていくだろう。そして「この世は自分の居場所だ!」ということに、やがて気づいていくだろう。
 先日、2年前の秋葉原の無差別殺傷事件の公判があった。そこで容疑者はこう言っていた。
 「誰も自分を顧みてくれない。世間は自分を疎んじている」
 つまりこの世にいながら、彼はこの世が居場所でない、よそ者の感覚になっていた。そしてそれがやがてあの悲惨な大事件になったのだと思う。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」(コリントⅠ、13・4-8)

 お互いに、このような愛の持ち主でありたい。
わが子と凧をつくる父親たちの、わが子をいとおしむような表情と物腰に、とても私は感銘を受けた。なぜならそこに、神様の愛の片鱗を見いだした思いをしたからである。
私たち人間はそれぞれ、人生という名の凧作りにいそしんでいるのである。そして父なる神様はいつも私たちと一緒にいて下さり、私たちの作業を見守って下さっているのである。
しかしそれは決して、私たちを危険から守って、いつも監視している神ではない。人が自ら自分の意志で試み、失敗し、傷つき、そこから自らがなにかを学ぶことを欲する。それほど私たちの自由を重んじて下さっている天の御父なのである。すべて神様の深い深い愛のみ業(わざ)である。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。神様の真の愛に一層信頼して進んで行きたい。