トップ >  信者の方へ >  司祭のお話 > 

てくむ 2010年2月号

司祭のお話 てくむ 2010年2月号

「恥多き人生。だからこそ・・・」

主任司祭 パウロ 小林 敬三

 先日、東京である法事に参加した。なごやかな昼食の席で、たまたまお隣りの席が芸術方面での人間国宝の方だった。90歳をはるかに超えた、言わば功成り名を遂げた方である。
 くつろいだ雰囲気の中で、私はその方に質問した。
 「先生、もう一度人生をやり直せたら、またおなじ道に進みますか?」
 すると、意外な答えが返って来た。
 「とんでもない。人生なんて一回で十分だ。もう十分に恥をかいた。これ以上恥かきはごめんだ」
 私は意外に思いながら、なるほど、これは人生のひとつの真実をついてる感想かと思った。
 私たちは特に若い時、なかなか自分の真実の姿が見えないものだ。正しいのはいつも自分、まちがってるのはいつも他人。どうしても自己への過信がある。そして他人からなにか非を指摘されると、盛んに弁解して、自分はそれほど悪い人間じゃないと、自己正当化しがちなのが若い時の特徴だ。つまり、自分への買いかぶりが強い。傲慢だからだ。
 ところが年を十分にとり人生の黄昏(たそがれ)に近づいて来ると自分の過去を思い起こして突然ハッキリと見えて来るものだ。非は相手にあったのではない。自分の方が実ははるかに悪かったのだと。
 あの時のあの人へのあの言葉は、大変失礼なことを言ってしまっていた。ああ、自分の想像力が欠けていたからだ。そう気づき始める。あの時のあの行為は、自分の思い上がりからやっていた。つまり、的をはずしていた。だからあの人の機嫌を悪くさせてしまっていた。人間は的外れのことを言ったりやったりすると、あとで気づいた時「はずかしい」と思う。まさに罪の本質は、そこに関わっている。思うに人間は、誰にとってもその意味で、それぞれの人生が恥かきの連続ではないか。
 ある時イエス様に弟子のヤコブとヨハネが質問をする。
 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」
 (マルコ10・37)
 この栄光とは、この世の栄光のことだ。つまり「あなたが天下を牛耳ったら、自分たちを特に幹部にしてくれ」と言ったのだ。
 こんな俗っぽい願いをこの二人の弟子は、いつお願いしているか?イエス様がご自分の十字架の出来事と、その後の復活の出来事を述べた、まさにその直後である。
弟子がもし質問するなら、「そのご受難の真意はどういうことでしょう?」、「復活とは一体何を意味するんでしょうか」等、もっとそれらに相ふさわしい質問をしてもいいのに、天下を取られたら「私を右に、もう一人を左に座らせてください」だ。
 イエス様が本当に尊い十字架と復活の出来事を話しているのに、自分たちのこの世の地位栄誉を求めるこの弟子の姿は、まさに的外れだ。恥ずかしいではないか。
しかもその直後、二人の願いを聞いた他の弟子たちは、腹をたて始める。なぜ?出し抜かれたからである。自分たちこそほしいのに、あの二人が先に言ってしまった。つまり、腹を立てたのは、自分たちも地位名誉を求めていたからである。
 主の十字架と復活より、この世の栄達に関心のあった、はずかしい弟子たちの現実。この人間としての的外れの現実を数千年前の預言者エレミアはいみじくも言い放っている。
 「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる」(エレミヤ17・9)
 しかし、安心しよう。恥多い人間のためにこそ、主はこの世に来られたのだ。そして的外れゆえに、恥多い悲しい私たちのためにこそ、主は十字架にお架かりくださった。
 みなさん、私たちは知っている。どんなに的外れな恥ずかしいことがあっても、心から悪かったと神様や相手に思った瞬間、どんな罪でもそれぞれ赦されているということを。
 そのためにこそあの方はこの世に来られ、あの十字架の上で私たちの罪の赦しのために、我々の身代わりに尊い命をお捧げくださったのだ。だから、安心できる。過去を過去として、それぞれ私たちは打ち忘れ、未来に向けて行こう。主のなさったた業(わざ)をいつも思い起こし、赦された者として主に絶えず感謝と賛美を捧げながら共に歩んで行きたい。