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てくむ 2009年9月号

司祭のお話 てくむ 2009年9月号

誉れは相手に、非は自分に

主任司祭 小林敬三

 日本の暑い夏を彩るスポーツと言えば、甲子園の高校野球大会だ。日本中の高校野球チームが各地で予選をして、各県の代表になり、そして最後に一校が優勝する。
  私が大変興味深く感じるのは、この優勝の一校を除いて、みんな負けを体験するということだ。みんな、挫折をしなければならない。これは人生が始まりかけた高校生にとり、とても貴重で大事な体験だ。なぜなら、人生とはそもそも、どんなに努力しても、思い通りにならない部分があるからだ。挫折することで、人間は自分の限界を知り、謙虚に生きる姿勢を学ぶのである。
  さて、先日テレビをつけると偶然、試合終了後の場面が映った。岩手県代表の花巻東が勝ち、今大会屈指のピッチャーと言われている菊池選手の報道関係者によるインタビューのところだった。
  勝利の功労者菊池選手に記者たちが質問した。
  「勝って、いまどう感じてますか?」
  すると非常に感動的な答えを彼はした。
  「相手のチームは何度も対戦して、負けてきた相手です。だから実力は相手の方が明らかに上です。しかし今回勝って、少しは相手チームに近づけたかなと思います」
  この謙虚さ。普通、高校生なのだから、もっと大口叩いてもいいだろう。「相手のここが弱点でした」とか、「我々は一生懸命やってきたから勝てたんです」とか、いろいろ言ってもいいはずだ。
  勝ったけれども、相手を誉め讃えている。相手に誉れを与えている。勝っても高ぶっていない彼の発言を聞いて、私は昔聞いたある言葉を思い出した。
  「誉れは相手に、非は自分に」
  私たちはふだん反対だ。なにか良い事があるとすぐ自慢して、誉れを自分に帰する。そしてなにか非があると、さかんに他人のせいにしがちだ。誉れは自分に、非は相手に、だ。その証拠に衆議院選挙の党首会談では、互いに正しいのは自分の党とやりあっている。これが人間の悲しい現実、われわれ罪人の現実だ。   
  ヨハネ福音書11章は、死んだラザロを復活させたイエス様の出来事が伝えられている。ベタニアにマルタとマリアという姉妹が住んでいた。イエス様を心から尊敬するこの姉妹の願いにこたえ、主は死んだばかりの弟ラザロのところにやって来る。
  そして死んで四日も経っているから、死臭がただようと言われても、イエスはラザロの葬られている墓に案内させた。当時のお墓は洞穴で、入り口に大きな石が封印として置かれている。イエスは、まわりの者に石を取りのけさせ、そして仰った。
  「ラザロ、出て来なさい」
  するとそこに夢のような光景が実現する。死んだラザロが墓から歩いて出て来たのである。
  この時、イエスはどうしただろう?
  「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって、感謝します」(ヨハネ11・41)
  ご自分がラザロを蘇らせたのに、まず、父なる神様に誉れを帰し、感謝している。おのれの手柄としないで、誉れは御父に捧げているのである。
  ミサ中私たちは、主がお教え下さった「主の祈り」をご一緒に唱えている。その直前に、こういう祈りをご一緒に捧げている。
  「キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、すべての誉れと栄光は、世々に至るまで。アーメン」
  御父に対する誉れを、栄光を、我々も讃えているのである。
  我々の日常はとかく、「誉れは私に、非は相手に」なりがちだ。そうではなく、まず、なによりも我々は、誉れをことごとく天の御父に、そしてまわりの方々に捧げていきたい。