トップ >  信者の方へ >  司祭のお話 > 

てくむ 2008年12月クリスマス号

司祭のお話 てくむ 2008年12月クリスマス号

列福式と号外

主任司祭 小林敬三

 いまから3~4百年前、キリストを信じるが故に尊い命を落としたペトロ岐部と187殉教者の列福式が、去る11月24日にあった。長崎市内の県営野球場で行われ、我が西千葉教会からは約60人が参加した。
  全国から集まった3万人の信者が球場を埋め尽くし、300人の司祭達と、白柳枢機卿司式によるすばらしい記念ミサが行われた。あいにくの朝からの雨模様。しかし、12時の式開始直前になってそれまでの激しい雨が突然やみ、野球場のホームベース付近にしつらえた祭壇に全国十数人の司教達が立ち並んだ。実に印象深い、感動に満ちた列福式だった。
  3時間におよぶ記念ミサの後、私たちはホテルに若干疲れ気味で戻った。ホテルのロビーに入ると、たったいま式に参加した人々が、人だかりを作っている。「なんだろう?」と見ると、号外が配られていたのだ。地元紙の長崎新聞の号外で2ページの紙面にわたって大きな活字、大きなきれいなカラー写真で今日の列福式の様子を伝えていた。
  翌日千葉の教会に帰り、早速新聞を広げて昨日の式典の記事を探した。すると私の取っている全国紙には、32面中30ページ目にわずか12行で収めてあった。
  わずか12行。これはいかにも現代のシンボルではないだろうか。数百年前の殉教者についてのニュースなど、現代社会を支配する市場原理(最小のコストで最大の利益)から見れば、全くつまらないこと。目に見えない世界のために殉教するなんて、全く愚かなことなのだろう。それが「12行」に表されているように思えた。
  一方、現地長崎新聞の「号外」。新聞社の宣伝効果も考えての事だろうが、まさに殉教者の列福を祝う当地のカトリック信者の立場に立った編集内容だった。今回の列福式がわずか12行では済まされない、一大事なのだということを、この号外は如実に示すものだった。そしてそれは、はかない地上の栄華よりも、永遠に変わらない天上の神のために戦い、潔く命を捧げることは心から納得のいく選択だった殉教者たちの信仰を讃えるものだった。
  2面に渡る「大」の号外と、12行で済ませた「小」の小さな記事。この大事と小事の二つを私たちの信仰生活にあてはめてみた。
  私は小さい頃、親の命令で教会の日曜学校に通っていた。キリスト様の話を聞いても、心は上の空。ジャイアンツの選手になりたいから早く練習に行きたい。つまり当時の私にはジャイアンツの選手になることが人生の大事であって、キリストの存在は12行の記事同然、小事であった。
  しかし人生の失敗や挫折を繰り返し、聖書を通してキリストの存在が次第に大きく、心の中で膨らんできた。やがてキリストの愛にふれ、これなくして自分の人生は考えられないほどまでになった。小事だったキリストが、いつの間にか人生の大事になった。当然、一方のジャイアンツは、小事に過ぎなくなった。まさに人生の大逆転だ。
  私たちは常日頃、あまりに下らないこと、つまらないこと、どうでもいいことに囚われ、こだわり過ぎていないだろうか。私たち罪人(つみびと)は、大事と小事を混同していつも悩み、苦しみ、落ち込んだりしている。
 

「人生は短くない。我々が短くしているのである」

(セネカ)

小事にこだわり、振り回され、人生を短くしているのである。
信仰とは、人生の大事と小事の混同をもとに戻すことだ。大事を大事とし、小事を小事とすることが福音なのである。大事を大事とした殉教者たちは信仰を守り、命を捧げた。そして福者の栄を勝ち得たのである。