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てくむ 2008年11月号

司祭のお話 てくむ 2008年11月号

いささかの痕跡も残すことなく

主任司祭 小林敬三

 先日、『ご近所の悩み事』という報道番組を見た。それによると、いま町に住む人々の悩み事の一つに「落書き」があるそうだ。ガード下や、商店街のシャッターに落書きされてしまう。スプレーで、落書きする自分たちのグループ名や個人名を書くのだ。

  落書きは誰にとっても見苦しい。行政側は見つけ次第、すぐ白く塗って消し去るよう対処している。その理由は、一つは次に落書きをする人の意欲を消すためだそうだ。汚く落書きしてあると、心理的に次に来た人も落書きしやすい。ところが真っ白いと、あえて描く意欲が減るという。

  二つ目には、すぐ消すことで、行政によく管理されてる土地という意思表示になる。すると泥棒やひったくりといった犯罪が、そこでは起こりにくくなるそうだ。

  ところで、なぜこの落書きの実行者たちは、目立つところに自分たちの名前を書きたがるのだろう?TVで実行者たちの一人が言っていた。

  「自分の存在の証を残したいから」

  なるほど。別の実行者は、朝会社への通勤途中に自分が書いた落書きがガード下に見えると、「手を合わせてお辞儀する」と言った。

  落書きの動機が、自分の存在を残したい。人から顧みられたい、自分を振り返ってもらいたい。つまりこれは、人に対して愛を求めているのである。求愛行為だ。
  そもそも人間は、みんなさびしい。孤独だから、まわりの人に振り返ってもらいたいし、相手にされたい。一人前の人間として認められたい。だから自分の生きた痕跡を残したいのだ。

 いま日本の教会は3~4百年前、イエス様を信じるがゆえに命を落とされたペトロ岐部と187殉教者の列福をひかえ、共に祈る7週間が始まった。当時の為政者にうとまれ、憎まれ、キリストゆえにその生涯を捧げた人たちである。

いろいろな悩みを抱えた生身の人間が、なぜ潔く、命を捧げられたのだろう?  それは、神の言葉が彼らの心に触れたからだ。神の言葉が彼らの心に宿ったからだ。神との一致が、彼らの人生の目的だった。だから常日頃、彼らの心の奥底の状態は、神以外の何者にも求愛しない人間になっていた。

これはガード下やシャッターに自分の痕跡を残すのとは正反対だ。神のみを見据えて、もはやいささかの自分の痕跡も残すことなく--それが殉教者たちの共通の霊性だったのである。

 「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」

(マタイ21・42)

 隅の親石とは、アーチ造りで両側から煉瓦を積み重ねていき、最後に真ん中に入れる肝心要の石のことだ。隅の親石が入ると、すべてがビシッと締まり、どんな大きな地震にも揺るがない丈夫な門として完成する。

 イスラエルの人々の救いのために、神様のご計画どおりに歴史は動いた。その最後に、イスラエル人の一人として生まれた主イエスが、そのご受難とご復活を経て、人類救いの歴史の隅の親石となったのである。ご受難とご復活によって、人類の救いの歴史というアーチが完成したのだ。

  その主イエス・キリストに私たちはいつも人生の座標軸を定め、このたび列福される188人の殉教者たちと共に、いささかの自分の痕跡も残すこともなく、神のみに求愛し、神のみに目を注いで、お互いに歩んで行きたい。