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てくむ 2008年8月号

司祭のお話 てくむ 2008年8月号

旗 幟 鮮 明 (きしせんめい)
    -- 原主水の臼井城趾を歩いて --

主任司祭 小林敬三

 昔、武士は戦(いくさ)の時、自分たちの陣営に旗や幟(のぼり)を立てて、敵味方をハッキリ見分けた。そういうことから、自分の立場、自分の主義主張をハッキリする事を「旗幟鮮明」と言う。

 カトリック教会では聖人になる前の段階の人を「福者」と言い、この11月に日本で、385年前に殉教した「ペトロ岐部と187名の殉教者」たちの列福式が行なわれる。
その中に一人の千葉出身者がいた。いま私が夢中になり、一生懸命時間を費やして調べているのが、その人、原主水(はらもんど)だ。
原主水は佐倉市の臼井城主の息子だった。彼の父親は、小田原の合戦(1590年)で北条氏側につき、秀吉に破れて江戸で切腹した。父を亡くした幼子の原主水は、徳川家康に見いだされる。「背が高く、勇猛な武士」。彼はそう、まわりから言われていたようだ。彼は将軍家康の30人の警護役のトップになり、静岡の駿府城に移ることになった。
そして18歳の時に用事で行った大坂でキリスト教に接する。彼はモレホン神父様のもとで学び、やがて洗礼を受けた。ところが静岡で起きたある事件をきっかけに、徳川家康はキリスト教を弾圧するにいたる。原主水は捕えられ、安倍川で両手の指を切断され、額に十字架の焼き印を押され、両足のうしろの腿の筋を切られた。
その身でありながら、彼は江戸に出て、浅草のハンセン病患者の収容施設で看護人として働いた。しかし40歳の時、賞金目当てのかつての部下に密告され、司祭や修道士や一般信徒計50人と共に捕えられた。ちょうど3代将軍家光が将軍に就任する時で、家光は威信を見せるため、またキリシタン禁制を誇示するため、捕えた人々を祝賀会に集まった大名の眼前で火あぶりにした。これが、江戸の殉教者の出来事だ。1623年12月4日。品川の札の辻でペトロ岐部神父および宣教師、一般信徒計50名がおびただしい群衆の前で、壮絶な火刑で命を落とした。時に、原主水は43歳だった。

 主イエスは弟子たちを福音宣教に派遣するにあたり、厳しい覚悟の言葉をお告げになる。

 「人々を恐れてはならない。...... わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10・26ー28)

 かつての殉教者たちは、自分が信仰の英雄者、自分たちは信仰の勝利者である、そう意識して行動したわけではない。原主水たちの洗礼後の足跡をたどってみると、その底に流れる殉教者たちの共通点、それはただひたすら神と一致した生き方をしたい、ということだった。
現代に生きる我々にとり、主イエスの投げかける福音のメッセージは、一見不合理で、一見社会から受け入れられず、浅く理解したならば反発すら招きかねない言葉かも知れない。それでもなお殉教者たちは、勇気をもって主イエスの価値観に生き、主イエスのみ言葉に生き、それを身をもって命がけで証しして逝かれた。
我々はいまの世の中で、なかなか自分の信仰の立場を堂々ととかく人前で表明しない状況にある。お互いに隠れキリシタンになっているところもあるのではないだろうか。しかし、時と場合によっては人々の前で堂々と果敢に「イエスは主なり」と、自分たちの信仰を旗幟鮮明にして宣言する勇気を持ちたい。
この度、福者になる原主水の臼井城趾の美しい公園を歩きながら、そのように考えた。