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てくむ 2008年5月号

司祭のお話 てくむ 2008年5月号

論 語 と 十 字 架

主任司祭 小林敬三

 教育基本法が改正され、いわゆる「ゆとり教育」をやめて授業時間をふやし、学力を高めるということになった。学力向上と同時に昔からの我が国の良い伝統を、すなわち品位、節度、調和、正直、親切、勤勉などを大事にしようということだ。戦後教育でこれらの徳目は、たしかに軽視されてきた。いまの世の中の様々な出来事を見ると、節度を失い、人をだまし、人の迷惑を顧みない行為が蔓延している。

 さて、<昔からのよき伝統>と言うけれども、孔子の<論語>の教えの影響が強いのではないか。たしかに論語が言ってる事はとてもすばらしい。しかし、人の罪の問題は解決できない。人間としての品位や節度、あるいは正直や親切を追い求めながら、孔子自身、自分も真理を求める一人の凡夫、悩める人間に過ぎないという感がある。 人間としての品位や節度などをいくら教え込んでも、人間は生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた時に本当に論語の言う通り、正直、親切、節度うんぬんを発揮するだろうか? どうしても人間のエゴイズム、自己本位が出てきてしまうのではないか。

 著名な学者の講演を最近聞いた。
この方は太平洋戦争中、海軍の兵員として博多から中国に、大きな船に乗って渡ることになった。魚雷何百本も船の前方に積み、自分たち兵士何百人は船の後方に乗っていた。真夜中2時半、韓国の済州島沖を航行していると、アメリカの潜水艦に発見されて魚雷攻撃を受けた。魚雷は弾薬を積んだ前方を直撃し、船は大爆発。たちまち前方が沈み始めた。
みな、なんとか生きようと本能的に思う。船室の明かり窓から、ひもが垂れ下がっているのが見えてパッと本能的に飛び移った。脱出するために必死によじ登った。ところが下を見ると、自分と同じ兵士たちが、命が助かりたくてみな我先に下から登って来る。下手するとひもが切れる。自分の命が危ない。そこで彼は咄嗟に、登って来る連中を足で蹴り落とした。そして自分だけが助かった。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の正反対である。

 「この足が、この足で、何人もの命を蹴落として来ました。そしていまここに私はいます」

 そう、講師の先生は仰った。旧軍隊の、しかも幹部候補生だ。兵学校では日本のよい伝統を相当学んだはずだ。品位、節度、正直、親切など、論語の深い精神を教わってきたはずだ。本当に品位をその時発揮したならば、自分はやめて他の人にひもを与えるはずだ。品位とは、自分の利益ではなく、相手の利益を優先することだからだ。本当に親切だったならば、教育を受けて来たとおり、自分は乗り移らないで、ほかの人にそのひもを譲るはずだ。
でも、もうその時は、生き延びたくて、本能的に飛び移る。つまり、人間とは、いざとなったら人を蹴落としてでも自分は助かりたい。他人はどうなってもかまわない。自分の命はほしい。このエゴイズム、この自己中心。聖書で言う、これが罪である。これこそ、人の心の奥底に巣食い、いつも暗く蠢(うごめ)いているマグマのようにいつ吹き出すか分からない、エゴイズム、自己中心という名の罪なのである。

 聖パウロはいみじくも、この罪を喝破している。

   「わたしは欲する善をできず、欲しない悪をしてしまっている」(ローマの信徒への手紙 7章)

 救われざる自己の姿である。こういうみじめな我々の救いのため、まさに主は十字架上で、命を捧げて下さったのである。