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てくむ 2008年3月号

司祭のお話 てくむ 2008年3月号

主イエスは復活された
  -- 余録の喜び数多けれど --

主任司祭 小林敬三

 若い頃、司祭になる直前のことだ。「万一司祭になれさえすれば、一生片田舎の助任司祭でいい」と思った。ひとりしか日曜日の御ミサに来なくても、それだけでもいい。もう司祭になれただけで本望。司祭になれるよろこびの他は、それらはみな余録の喜び。そう、自分に言い聞かせて司祭になった。
なぜいま昔のことに触れるかと言うと、先日まさに「余録のよろこび」という題の、あるご婦人の文章を読んだからだ。
「自分には、すばらしい娘がひとり与えられた。これ以上の善きことがあるとするならば、私にとっては余録のよろこびだと思っている」
だから毎日感謝の連続、という文章だった。

 「イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。」(マタイ17・1-2)

 主イエスのご変容の時、「顔は太陽のように光り輝き」とある。この「輝く顔」とは、復活した人のシンボルだ。例えばマタイ福音書にも、「復活のとき、正しい人々は父の国で太陽のように輝く」(マタイ13・43)、とある。山の上で主イエスの顔が太陽のように光り輝いたのは、復活の世界を体験なさったことを指す。復活の世界の言わば、先取りをなさったのである。復活の世界を弟子達に垣間見させ、そして光り輝く雲の中から神の声がした。

 「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(マタイ17・5)

 かつて私たちは罪人だった時、主イエスに出会い、そして素晴らしい洗礼の恵みを各々戴いた。このように神様を信仰させて戴いているだけで、すでに十二分に恵みを戴いている。
にも関わらず、<余録のよろこび>とも言えるような恵みを私たちはたっぷり日頃戴いている。いつも共に歩んで下さっている主イエスの支えと力強さ、聖霊による日ごとの導きと守り。その一つ一つが人生におけるまばゆいばかりの宝だ。そしてそれらの中で最も中心に位置することは、主イエスの復活である。
私たちもやがてこの世の生涯を終え、復活し、天で神と共にあい睦まじく生きるよろこび。その世界の先取りとしての主イエスのご変容の事実は、死にさえ打ち勝つことができるというイエスの復活の勝利の宣言だ。使徒パウロも言っている。

   「私たちの国籍は天にあり」(フィリピ3・20)

 私たちの本当の居住権のある場所は、天だ。この世は所詮、一時滞在する仮の宿に過ぎない。しかし私たちは、この世の事に闇雲に深入りし過ぎてはいないだろうか。この世の価値感と人の目と批判とに翻弄され、振り回され、がんじがらめにされていないか。心したい。

 主イエスに出会えただけでよろこび一杯なのに、慈しみ深い神様は、たくさんの余録のよろこびを私たちのために、この世にすでに備えて下さり、あの世でも用意して下さっている。
ろくでもないように見える人生を送っている私たち。腑に落ちないことに囲まれて毎日を過ごしている私たち。しかし私たちはそれらに打ち負かされず、いつも慈しみ深い神を仰ぎ見つつ、賛美しながら、互いに力強く、たくましく、歩んで行きたい。
主イエスのこの世のご生涯における最高の出来事、それは<復活>。この世で終わることのない、神の支配なさる想像を絶するすばらしい命。いつしかそこで主イエスと再会し、よろこびの華やかな宴の席にひとり残らず、連なることのできるよう祈りたい。私たちの国籍は、天にあり。お互いに復活のイエスをいつも仰いで、喜びをもって日々歩んで行きたい。