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てくむ 2008年2月号

司祭のお話 てくむ 2008年2月号

恩は岩に刻み、恨みは水に流せ

主任司祭 小林敬三

高速道路を走っていたら、空中に赤い物体が二つ、こちらに近づいて来た。UFOだ。ジッと目をこらすと、下に「祝・パルコ開店」の文字だ。なんだ、単なるアドバルーンだったのだ。
さて、そこで、なぜあのアドバルーンは空中の同じ所にジッと浮いていられるのだろう、と考えた。理由は二つだ。
一つは、あの気球の中に空気より軽い気体(ヘリウム)が入っているからである。 もう一つは、気球の下にズーッとついている"ひも"が決め手だ。ひもの先端が地上に固く結ばれていることで、気球は一定の高さに、長い間静かに、そして自由に浮いていられる。地上での固定が気球の自由を奪っているのではなく、地上に固く結ばれているからこそ、気球は自由にしていられるのである。
本当の自由は、常にある制限の内にこそある。この事実は、神様と人間の関係について考えるとき、ずばり同じことである。
かつて天の神様は万物を造られ、最後にご自分に似せて人間を造られた。人間は<神の似姿>と言われ、その印として尊い自由意志が与えられた。
ところが人祖アダムとイブは、その自由意志を濫用し、神様に背いてしまった。それまで神様と人間はあたたかい平和な関係にあったのに、言わばひもの先の神様との固定部分が断ち切られてしまったのだ。そのため人間は、無目的に空中に漂う気球のように、空しさと孤独と不安と、先の見えない絶望のただ中に叩き込まれて生きるようになった。これが、この世の人間の現実の姿である。

宗教は、漢字で「宗」に「教える」と書く。「宗」とは、おおもと、本源の意味だ。つまり宗教とは、人生の大本の教えなのである。 ところが英語で宗教は、Religion。語源のラテン語を分析すると、reは「再び」、ligionはligareで「結ぶ」という意味だ。つまり、「再び結ぶ」。これが英語Religionの本来の意味である。 主イエス・キリストのこの世に来られた、お誕生の目的。それはまさに、一度断ち切られた、父なる神と人間との関係を再び結ぶためである。 私たち人間は、神の一人子キリストを救い主として信じ、心から結ばれることによって、初めて、真のよろこび、真の平和、そしてなによりも真の自由がもたらされるのである。 しかしこの自由を、私たちは間違って解釈しがちだ。例えば、憎みたい人を憎みたいだけ、いつまでも憎み続ける。これが人間の自由と思いがちだが、これは自由などではない。憎しみの奴隷になっている印だ。 憎みたい人を憎み続けたいが、断ち切る。相手を赦す。これこそ、真の自由の使い方だ。憎しみからの自由こそ、キリストの教えの中核を為す事柄なのである。

世の中に、次のような言葉がある。
「恩は岩に刻み、恨みは水に流せ」

なんでもよい。理由を見つけて、相手を赦すことの大切さ。するとなによりも、赦した私自身がホッとするのである。相手も必ず、赦されたことが分かり、態度が変わり、平和がふたりの間にもたらされるのである。

「真理は、あなたたちを自由にする。」(ヨハネ8)

※真理とは、この場合、主イエスご自身を指す。