トップ >  信者の方へ >  司祭のお話 > 

てくむ 2007年9月号

司祭のお話 てくむ 2007年9月号

よい祈りって、どんなものだろう?

主任司祭 小林敬三

 多くの日本人は、新しい年になると神社仏閣に初詣に行く。そこで祈る神とは、一体どういう神だろう。「自然の奥に存在する、なにかハッキリ説明できないけれども畏れかしこむもの」、ではないだろうか。12世紀の有名な歌人西行法師も、伊勢神宮で詠んでいる。 「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」 神社における神とは、なにか捉え難い、畏れかしこむ対象だ。

 一方、私たちの救い主イエスは私たちに、神様に祈る時、「天におられる私たちの父よ」 そうハッキリと呼びかけて祈ることを教えておられる。祈りとは、そもそも信仰生活には欠くことの出来ない重大事だ。ある時弟子のひとりがイエス様に、祈り方を教えて下さいと言った。すると主は、あの有名な主の祈りをお教えになった。「父よ、御名が崇められますように」 祈りの始めにまず「父よ」。そう祈ることをイエスは求める。赤ん坊が自分のお父さんを信じきってすべてを委ねるように、祈りの時まず赤子のような全き信頼の心をもって、神様に「父よ」と呼びかけて祈りなさいと言うのだ。

 ところで多くの日本人にとって祈りとは、健康の回復、家内安全、交通安全。なんでも願い事を神仏に述べ立てることと思いがちだ。「なんでも願いなさい」と、主イエスも確かに言われている。だから健康の回復や合格を祈ってもいいけれども、しかしそれだけではあまりにも幼稚であり、あまりにも程度が低い祈りと言える。

 聖書全体から見ると、祈りとは願い事を述べ立てることではない。おねだりすることではない。もちろん、自分の願いはあってもいいけれども、それは祈りの入り口に過ぎない。祈りとは、なによりもまず、父なる神様に感謝すること。そして神様の名、つまり神様の存在を誉め讃えることなのである。
そして注意したいのは、願い事が満たされたから感謝するのじゃないことだ。毎日いろんな辛い事に出合いながらも、神様からすでに与えて下さっているものを思い起こし、気づき、神へ感謝し、賛美することである。感謝の祈りなのだ。

 毎朝私は目が覚めると、朝の祈りを祈る。「神よ、私の口を開いてください。私はあなたに賛美を捧げます。神よ、憐れみと祝福を私たちに。あなたの顔の光を私たちの上に照らしてください・・・」