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てくむ 2007年7・8月合併<聖母被昇天>号

司祭のお話 てくむ 2007年7・8月合併<聖母被昇天>号

マリアの被昇天と私たちの生活

主任司祭 小林敬三

 人間は化粧をするから美しくなるのではない。余分な物を捨てるからこそ、美しくなるのである。
「余分な物」とは例えば、人より多く持ちたい。あるいは、人からよく思われたい。あの人に恨みの気持ちがある。等々、すべては余分な物なのだ。

 若い頃、私はカトリックに惹かれながらも、沢山の教えに疑問があった。その中で最も大きなものは、マリア様に関してだった。救い主キリストが人間として生まれたため、言わば偶然女性としておなかを貸したに過ぎないのではないか。それなのになぜ聖マリアを、カトリックではこれほど尊敬するのだろう。ざっとこんな疑問をある神父様に質問すると、しばらく考えてからポツリ、こう仰った。
「偶然と言われるが、神様の前に偶然はひとつもありません」
その言葉はとても印象的だった。

 ルカ福音書1章26節によると、ナザレに住む一人のおとめの所に、ある日大天使ガブリエルが遣わされて言った。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」
  「あなたはみごもって男の子を生むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方と言われる」

 マリアは「男の人を知りませんのに・・・・・・」といぶかり、しかしそれが神のご意志と分かると、

 「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」

と、全人格をあげて受け入れた。

 人間は木石ではなく、自由意志をもった尊い存在だ。神様の救いの計画に自由意志をもって協力したからこそ、救い主が人間としてこの世に生まれることになった。だから、私たちは聖マリアを信仰生活の模範とするのである。また、「マリアよ、助け給え」ではなく、「マリア様、どうぞ私のために祈って下さい」と、取り継ぎの願いを捧げるのである。 

 日常生活を振り返って見たとき、私たちはどういう基準で毎日の行動を決めているだろう。これが自分にとり、損か得か。まわりの人が自分の行動をなんと言うか。そういう事で決めがちではないか。そうではなく、まず祈り、祈りを通して神のみ心が私になにを望んでいるかを知ることの大事さを、聖母マリアから学びたい。そして神様のみ心に、いつも「はい」と従順であること。これこそ聖マリアが私たちに教える、信仰の態度である。

 人は化粧するから美しくなるのではない。余分なものを捨てるからこそ、美しくなる。でも、私たちは自分の生活を振り返ったとき、この余分な物がなかなか捨てられないでいる。
人類の歴史で数多く描かれてきた聖母マリアの御絵や彫刻に共通して言えるのは、マリア様のお顔が大変美しい、ということだ。しかしその美しさは化粧による美しさでなく、聖マリアこそいつも自分を捨て、神様のみ心を常に一番大事にしたところからくる美しさである。

 ところで皆さん、私たちの教会の聖堂を顧みましょう。ミサが捧げられる祭壇やその付近が数年前からとても美しくなりました。なぜでしょう?
視覚的に種々余分なもの不都合なものが取り除かれたからです。だからこそ美しくなり、私たちにとり祈りやすくもなりました。被昇天のマリアに捧げられた私たちの教会にとり、この事実は意義深い。

 被昇天おめでとうございます。