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てくむ 2007年6月号

司祭のお話 てくむ 2007年6月号

駐車場が手に入った!

主任司祭 小林敬三

 ひと月前から小林神父はおかしい。誰かが空から私の姿をいつも見ていたら、必ずそう思うだろう。西千葉駅へ行くのに、いままではクルマも人通りも少ない教会脇の道を通っていたのに、ひと月前から突然歩くコースが変わり、どこに行くにも必ず近くのある場所を通るのだ。なぜだろう?
 それはわが教会が最近、駐車場を手に入れたからだ。実は駐車場がない点で、東京教区の教会中でわが教会は最悪だった。日曜のミサの時だけでなく、冠婚葬祭時にも、私たちはいつも困っていた。それが遂に手に入ったのだ。

 そこは取得するまでは他人所有の無数にある駐車場の一つに過ぎなかったのが、私たちの所有になると決まった途端、にわかに、いつも気にかかる特別な存在になってきた。毎日駐車場の前を通り、「元気か?寒くないか?腹減ってないか?」と安否を問うような衝動に駆られるほど、いとおしい存在になってきた。

 神様と私たちの関係も同じではないか。いま世界に60億もの人間が住んでいるという。私一人で、60億人を愛することは物理的に不可能だ。
しかし、私たちの救い主イエス・キリスト様は、人となった神だ。主に不可能はない。私たちは60億人を平等に愛する事はできないが、あの方はおできになる。一人一人を、あたかもこの世に於いてたった一人っ子かのように、私を愛して下さる。あの方にとり、私自身はいつも気にかかる存在であり、いとおしい存在だ。

 主イエスの愛こそ、愛の手本である。主は弟子たちをどのような方法で愛しただろうか。「相手のありのままの姿を受け入れた」のである。浮き世では、常にあるレベルを要求する。そのレベルになかったら、この世では愛されるに値しない人間になってしまいがちである。しかし主の愛は、ありのままのだめな私を受け入れて下さる愛なのだ。
イエス様は弟子たちの欠点を洗いざらいご存知だった。学ぶに遅く、悟るに疎い。鈍感、あるいは臆病など。しかし主の心は広く、いちいち咎めず、それぞれの失敗を愛をもって赦し、ありのままを受け入れて下さった。本当の愛とは、良きにつけ悪しきにつけ、このように相手のあるがままを受け入れることだ。 

 主の愛にはもっと深い意味がある。人を愛するとはまず、自分自身を愛さなければいけないということだ。背伸びして、格好よくなった自分を受け入れるのではない。自己中心な、みじめなありのままの自分を、自分が受け入れることなのである。

 私たちはとかく人と比較して、人より足りない部分を見いだすと恥ずかしく思いがちだ。自分の弱さや、自分のしてしまった失敗をいつまでも赦せなくて、苦しみ続けることがある。あるいは人の目から、自分の失敗を覆い隠そうと、ある人は殻をかぶってしまうこともある。それは惨めな自分が愛せないでいるから覆い隠すし、だから苦しむのだ。
ありのままの自分を受け入れられないようでは、他人のありのままを受け入れることもできない。つまらないことにこだわって、悩んでいる自分。そういうちっぽけな自分を笑い飛ばす事が大事である。

 教会に駐車場ができた。いままでは無数の駐車場の一つに過ぎなかったものが、私にとり特別の存在になった。神様と私たちの関係も同じだ。神様の愛にふれ、私たちはもっと自分に自信を深め、日々いっそう喜びにあふれ、神様の愛の深さと大きさに感謝しながら歩んで行きたい。