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てくむ 2007年4月<ご復活>号

司祭のお話 てくむ 2007年4月<ご復活>号

主のご復活を祝う

主任司祭 小林敬三

 皆さん、主イエス・キリスト様のご復活祭心からおめでとうございます。

 あのイエスが死から甦られたという復活の事実こそ、弟子たちにとり、その信仰の中心、決して忘れえぬ永遠に仰ぐべき出来事である。私たちの日常生活においても、復活された主がいつも共に歩んでくださいますように。

 さて、我が「西千葉教会報」(てくむ)が装いも新たに発行されました。まず、今まで編集作業をしてこられた方々の多大のご努力に心から感謝したい。と同時に、この度新しく編集に携わることになった方々へ、皆様のご協力をよろしくお願いしたい。

 主のご復活祭にあたり、弟子たちのエマオへの途上の話(ルカ24章)を述べよう。

 あのイエスが死者の中から甦ったという噂が広がり始めた頃、二人の弟子がエルサレムからエマオの村に向かって歩いていた。するといつの間にかイエスが一緒に歩き始められた。しかし二人はその方が誰か分からない。イエスは聖書全体にわたり、歩きながら二人の弟子にご自分について書かれていることを説明した。一行は目指す村に着いたが、イエスがなおも先に行こうとされたので、「一緒にお泊り下さい。日も傾いています」とイエスを無理にひきとめ、共に泊まるためイエスもその家に入った。
そして一緒に食事の席につき、賛美の祈りを唱え、パンを弟子たちに渡した時、二人の目が開け、この方がイエスだと初めて分かった。しかしその姿は消えていた。二人は語り合った。

 「道で話しておられた時、又聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」

 「日が傾く」とは夕方で、これは闇の前だから二人の悲しみと失望を暗示している。では、「心が燃えた」とは、何を示しているか。それは、いままでの心の闇の状態が、光り輝くものとなったことを表す。私たちも、毎日生活していて沢山の苦しみに出合い、悲しみや失望に陥り、どうしたらよいか途方にくれる時がある。しかしその時、復活されたキリストを仰ぎ、共に歩んでいただき、聖書を通して私自身の心にあの方が語って下さる時、私たちの心は光り輝くものとなるのである。

 それだけではない。主の姿が急に見えなくなった時、なにが起こったか。そう、あの二人は時を移さず出発して、エルサレムに引き返す。そして他の仲間の所に行き、いま道で起こったこと、あの方がパンを裂いて下さったこと、目が開けイエスだと分かった次第を仲間に話した。

 私たちはなにか人から物を受け取る時、その贈り物を実際手にした時点で、自分の物になったといえる。しかしキリストのメッセージは違う。
復活されたキリストのメッセージを耳で聞いただけでは、自分のものになったとはいえない。この二人の弟子たちのようにそれを携え、人々の所に知らせに行き、分かち合った時こそ、はじめてキリストのメッセージは自分のものになったといえるのである。

 私たちは生きていて、喜びと安らぎの毎日であればよいが、時に失望や絶望の中に叩き込まれる時もある。しかし、エマオの村の途上の弟子たちに起きたように、復活されたキリストがいつも私たちと共に歩んで下さり、失望を希望に、悲しみを喜びに変えていただきながら、日々歩んで行こう。そしてその喜びと希望を一人占めするのでなく、まわりの方々と分かち合いながら、復活されたキリストの証人として生きてゆこう。
新しい教会報がそのため少しでも役立つものとなりますように祈りたい。